6434名もの命を奪った阪神大震災から今日でまる12年がたつ。
当時、私は大学卒業を控え卒業設計図面を提出したばかりだったと記憶している。
朝からTVを通し映し出される街の様子は凄まじく、建築科に通っている自分として、街中の建物が崩壊している状況に息を呑んで画面に見入っていたのをよく覚えている。
震災発生後、連日のようにニュースで現場の状況が流され、次第に自分達で何か出来ないかというような声が廻りで自然と出てきた。
あとは卒業式を待つのみの学生だったので迷わず行動に出ようと思ったが、今のようにボランティア活動などの仕組みはまだまだ確立しておらず、とりあえず新聞の片隅で募集をしていたボランティアグループの東京での説明会に足を運んだ。
結局、震災現場に入ったのは震災後1週間ほどたったときだったと記憶している。
自分が説明会を聞きにいったボランティア団体の本部(本部といっても区役所内の一部屋を臨時でかりていただけだが)が入っている長田区役所に向かった。
区役所前に公園があり、そこに持参したテントを張って、約2週間のボランティア活動に参加した。
活動内容は毎日変わり、毎朝行なわれる朝のミーティングで被災者からの要望内容を一つずつ読み上げながら、誰が何を担当するといった具合で決められていった。
私は父から借りた車で現地入りしたので、車を利用した非難場所への飲み水の配達や、屋根からの雨漏りを防ぐ為のブルーシート掛けなどを行なった記憶がある。
長田区役所周辺は、被災地域の中でもかなり被害の大きな地域だった為、私が現地入りして最初に目に飛び込んできた街の様子は、まるで戦争映画に出てくる焼け野原のような印象だった。
ボランティア活動を行なった2週間の期間で特に記憶に残っていることは、公園に臨時で作られたドラム缶による五右衛門風呂。
もちろん、廻りの目隠しはブルーシートでチョコッと囲う程度だが、一日の疲れを取るのには十分だった。
こんなこともあった。
ボランティアグループの本部で、色々な書類をコピーする為にコピー機がほしいという意見がでた。するとボランティア参加者の1人が4月より某大手コピー会社に就職が決まっており、上司に電話で事情を話したところ
次の日に中古のコピー機が届いた。確か2~3台。
大きな会社は凄いなと実感したのを覚えている。
また、街中の埃がすごく、ミーティングの中でマスクがほしいという意見が出た。
次の日にはどこからか大量のマスクが届いていた。
いずれの話も被災から2週間ほど経っていたので可能だったことではあるが、あらためて人間の結束力の凄さを思い知った。
あれから、12年。
新聞によれば、神戸市は転入者も含め、人口の3割が震災を知らない市民となったそうだ。
国や県は復興したということで各支援策を次々に打ち切る方針だそうだ。
街の風景は完全に復興したと見えるかもしれないが、現実は未だ多くの被災者が県復興住宅で暮らしている。
あの時、お互いの立場や学歴、年齢など関係なく一体となって街の再建に力を合わせたのに、今では・・・・・
今神戸では震災の教訓をどうやって共有していくのかが大きなテーマとなっているそうだ。
いつか、あの長田地区をもう一度訪れてみたいと思っている。
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カテゴリー: 日記・コラム・つぶやき